月別アーカイブ: 8月 2011

夏まつり

 8月の週末は、各自治会などの主催で夏まつりが多数催されています。私もお邪魔させていただきました。  それぞれ趣向を凝らした催しや屋台などがあり、地元の皆さんも思い思いに楽しんでおられました。  私自身、いろいろな方からお話を伺い、又、元気もいただきながら大変有意義な時間を過ごすことが出来ました。  まだまだ暑い日が続きます、引続きご自愛ください。

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生まれ故郷 広島訪問記 その3

 8月1日、平和記念資料館で副館長の山根眞裕美氏に面会、8月6日を前にして今は広島を訪れる人が大変多い時期とのことで、啓発を担当する者として是非時間をかけて資料館だけでなくこの公園の全体をじっくりと見てほしいとのことでした。そしてここに来てもらえる人達・グループ・団体には、どんなお手伝いをしてでも、心に必ず何かを、平和への想いを持って帰ってもらいたいと熱く語っておられました。   この平和記念資料館では丁度「黒い雨」展が催されていました。あの爆弾炸裂後間もなく「黒い雨」が降ってきた。その状況を体験者が絵や文章にされていたものですが、本当にひどい悲惨な状況が展示されていました。その中で私自身の発見ですが、実は私は当時一歳半、1.5kmの直爆距離で被爆したのですが、家が爆心地の東側1.5km、比治山の北側のところにあったため、その比治山に逃げ込んだと親から聞かされていました。そして黒い雨はそことは反対の西方、及び北方の方角に降り、間近の比治山では降っていなかったということが今回わかりました。結果私は小さい身体に一次被爆はしたけれど黒い雨にもあたらず、二次被爆からは逃れて、おかげさまで今日がある、と改めて知りました。  そう言えば福島原発も放射線は太平洋方向と一部は内陸北西方向へ飛散(飯館村など)、その時の天候や風向きが人々の運命を変える、そんな天変地異 異変の恐ろしさを改めて感じました。  しかし、地震は天災であっても克服しなければなりません。まして原子力など人の手で作られるものから大きな災いが生み出されることは絶対あってはなりません。  今回広島を訪問し、又、数日前に福島・宮城を視察したことを思い出しながら、福島県の職員の方が言われた「人の命を救うこと、それが行政の仕事」この言葉を忘れないでおこうと改めて心に誓いました。                                                 田中英夫 拝

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生まれ故郷 広島訪問記 その2

8月1日   この日は広島県庁を訪問、広島県議会総務課を通じて危機管理監危機管理課 課長兼政策監 土井司氏に東日本大震災を踏まえた広島県の防災対策の拡充強化についてお話を伺いました。  県としては国の動きを注視しつつも、防災計画についてどの様な見直しが必要か洗い出し作業を行っているとのことでした。ここには五日市断層があり、地震防災戦略は必要であるとのことですが、東南海、南海沖の地震などについては注視しつつも、瀬戸内であるがゆえに津波にはあまり神経質ではなさそうでした。  原発については当県には立地はなく、四国や日本海側の立地について注視しているとのことでした。しかし、防災施策の充実強化には大きな力点を置いていて、地震防災戦略については平成29年度までに大地震の発生により想定される死者数を5割以上、被害額を3割以上減少させるという目標で立案遂行するとのことでした。   次に広島県健康福祉局、被爆者支援課 上野祐之課長にお会いしました。私も京都府原爆被災者の会に所属しているのでその支援状況には強い関心を持ってお聞ききしました。  元より国の援護法は広島でも京都でも全国同一ですが、広島・長崎は被災者の数が別格に多いので、援護措置は一般的には都道府県知事の所管であるところを広島市と長崎市だけは市長の所管となっているとのことでした。  又、戦後65年以上過ぎて、被爆者及び認定されていない被爆の人達も老齢化しており、今の課題は原爆被災者の認定、原爆症の認定、原爆投下直後に降った「黒い雨」の影響範囲(これが認定に関係している)などの問題が急がれるとのことでした。  いずれにしても、いつまでも消えない原爆被爆の問題を考えると、原発も含めてこれから新たに被爆者を生み出す原子力の利用は人間の統制能力を超えるものだけに、速やかに脱原子力へと進めなければならないと思いました。   その後徒歩にて30分、平和記念公園の資料館へと移動しました。途中、原爆ドームの前にはウィークデーにもかかわらず外国の人達も含めて多くの人たちの姿がありました。 このドーム、そして資料館、日本中のそして世界中の全ての人達に見てほしい、必ず平和への想いと祈りが湧き出ることと思います。                                            田中英夫 拝

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生まれ故郷 広島訪問記

 7月31日・8月1日と広島へ行ってきました。東日本の地震、津波、原発事故を思い、議員としての防災、危機管理への参画とは何か、京都及び亀岡の防災危機管理はどうあるべきかなどの思いと、今一度私自身の被爆体験をヒロシマで再確認、当時の惨状と向き合って自らの議員活動の原点を見つめ直そうとの思いで行ってきました。  併せて、広島県の危機管理課と被爆支援課を訪問。広島県の防災の対応を聞き取りしました。又、広島平和記念公園、及び資料館を訪問、山根副館長にもお会いして今の館の啓発活動などをお伺いしました。    31日、財団法人広島平和文化センター・広島平和記念資料館 啓発担当主事 竹谷文尚氏に面会しました。亀岡市では毎年(今年で11回目)7月末に「ヒロシマに学ぶ 親子平和の旅」を催しています。私が市長時に始め、今も続いている行事で市から一泊のバス代を補填、宿泊・食事等は参加者負担で毎年約15組30人余の小学生とその保護者が広島を訪れ平和学習をしています。毎回、平和記念資料館にお世話になって、被爆経験者の「語り部さん」に約2時間、当時の話を聞かせていただいています。今回、そのお礼を兼ねて啓発担当課を訪問、竹谷氏に面会、明日副館長さんにお会いする事前打ち合わせと若干の資料館の現状についての聞き取り調査をしました。  その後、資料館内を見学、以前にも増して充実した内容となっていました。数々の当時を物語る遺品資料を視つつ、原発に対する自分のスタンスの取り方など種々頭の中に課題が浮かびさまざま考えさせられました。又、横10mもあろうかという大写真に被爆直後の爆心地が写されていて、真中に爆心地(現在の平和記念公園)左に原爆ドーム(広島産業奨励館)、右に私の母校本川小学校(鉄筋コンクリート造り)、その二つの建物だけがポツンと残っていて、それ以外は全て粉々に砕け散乱しているという写真でした。7月26日に東北大震災の地 宮城県を視察、その折見た荒浜小学校(4階建ての屋上に全児童が上がって助かったとニュースで繰り返されたところ)も周辺は元々住宅地であったものが全て破壊、流されて、まさに学校だけが廃屋になってポツンと立っていたのを思い出し、改めてショックを受けました。  その後私の母校、本川小学校を訪問、かつて私の小学校時代は廃屋ともいえるボロ校舎であったが、今は美しい校舎や校庭をある種の懐かしさを感じながら、東北大震災を思いつつ、直接被爆した広島でもこのように復興した、必ず東北も復興は成し遂げられると強く確信できたことでした。                                        田中英夫 拝

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福島県訪問記 その2

翌11日は2時間かけて福島市から南相馬市へ、南相馬市役所で村田副市長にお話を聞きました。地震津波の被害は宮城県の方が大きいが福島ではここ南相馬が一番の被害であったこと、原発については市の3分の1が20キロ圏の避難地域、3分の1が30キロ圏の避難準備地域、3分の1が何も規制の無い白地地域と、元々この3つが別々の市町であったものを合併して南相馬市が出来た、その3つの地域がそれぞれ別々の状態となり、市の対策が取りにくい状況にあること、原発補償の一部として2地域には一所帯40万円が支払われたが白地地域にも市の単費で同額を配ったとのこと、今後海岸沿いの地域の復旧をどうするか、今計画を練っている最中とのことであった。大変難しい行政状況にあることに、聞く方の我々も暗たんたる気分になる程であった。 その後、海岸辺りの津波被害状況を視察しつつ市内の軽食屋さんに行った。昼食を終えて店のご夫婦に話を聞いた。「地震後も家族従業員15人でどう再開するかを考えていたが、原発の水蒸気爆発のニュースを見て怖くなって会津方面へ逃げ出した。途中ガソリンがなくなって3晩野宿をした。寒くて寒くてとてもつらい経験だった。やっと会津に着いてそこで京都府から救援に来ておられた職員さんにめぐり会った。京都府がシャトルバスを往復している事を聞いてそれに乗せてもらって奥さんの実家の奈良へ行くことが出来た。今とりあえず夫婦二人ででも店を再開できたのは京都の職員さんのおかげです。とても親切にしてもらってうれしかった。今日は京都の人達が昼食に来ていただくということで待ちに待っていました。ありがとうございました。よろしくお伝えください。」とのことでした。南相馬市役所に教えてもらったお店ですが、全くの偶然にそんな話を聞かされて、縁というものに驚き、感動したことでした。ご夫婦の写真を写して、必ず当時の派遣職員に伝えます。と言ってお別れしました。 その後、相馬市の漁港などいくつかの港湾を見て回りました。相馬港は津波で建物の屋上に漁船が乗り上げた写真がニュースでよく映し出されていた港で、沖の防波堤の上にもまだ一つ二つ船が残されていましたが、港は県の事業として復旧へと動き出していました。 今回の視察は駆け足で4ヵ所を訪問しましたが、夕食場所・昼食場所などで住民の方々のお話も聞けてとても勉強になりました。彼の地の一日も早い復旧復興を祈りつつ、京都の防災にいかに役立ててゆくか、しっかりと考えてみたいと思っています。                                           田中英夫 拝

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福島県訪問記

お盆も終わり仕事が休みだった方もそれぞれ職場へと戻られたところでしょう。残暑とはいえ何か本格的に暑くなってきた気がします。お互い体調には充分気を付けたいものです。 少し日は遡りますが、先月25・26日に引続き今月の10・11日に再度福島県へ視察と慰問激励に行って参りました。今回は府議会の防災等の特別委員会から、私はその委員長としての視察でした。府議会の近藤議長も同行してもらって福島県、県議会、そして南相馬市などに慰問と激励をしていただきました。 10日はまず、半月前に訪れた郡山市の避難所「ビックパレット」へ再訪問、避難者は前回の400人台から200人台へ減少、館全体も少し落ち着いて、これからは役場ごと移転された富岡町と川内村への対策を支援されることが主となっているとのことでした。一つ物事が進んだら次の課題が待っているということで、本当に大変、従事される皆さんの身体と心の健康にも充分お気をつけて下さいと、心よりの激励をさせていただきました。 その後、福島県庁横の福島県自治会館に関西広域連合福島現地事務所を訪問、京都府から派遣の職員さんに様子を伺いました。関西の各府県はそれぞれ支援の県を決めて活動していて、京都と滋賀が福島県、職員は一週間位ずつ交代で派遣されているとのこと。ところで東京都は独自に支援課を立ち上げ、常駐の職員を置いているとのこと、ボリュームの大きい都だから、そして被災地に近い関係もあっての措置でしょうが、京都などの派遣ももう少し長期間にとの声も聞きました。派遣される職員さんには大変でしょうが、それも一考かなと思いました。ともかくも復興支援に充分頑張ってほしい、そしてその上で京都府の防災にも派遣者みんなの生の声を生かしてほしいと思ったところです。 その夜は福島市郊外の温泉地「摺上亭大鳥」というホテルに宿泊、館内で食事をしましたが、その冒頭に支配人さんに地震のこと、観光などへの影響のことをお聞きしました。「地震では3階4階が全面改修となった。お客様は激減した。食は地元産を提供することを売りにしていたが、今は他からも仕入れねばならない。被災者を当初は80人、今は40人くらい県の費用で受入れているとのこと、地震に関係の無い会津でも修学旅行などの観光客が激減して困っておられるとのこと、ともかく皆さんお客様として来ていただいたことが一番ありがたい。」などとおっしゃっておられました。 宿の心づくしの食事をいただきながら、皆で震災のこと、原発のこと、避難している人達のこと、はては福島の肉は魚はどうなるのかなど話は果てしなく続いた夕食会でした。                                    田中英夫 拝

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